ちょっと記憶に頼って書いているので、間違いがあったら&長文スマソ。

1930年代初頭、アドルノはウィーンにいた。
当時のウィーンは「赤いウィーン」と後になって呼ばれるほど、
左右両翼陣営が政局を主導して革命的状況を迎えつつあった。

しかしそんな先鋭的な政治状況の中にいながら、青年アドルノは、
後の舌鋒鋭い社会批判者としての彼の姿からは想像もつかないほど“ノンポリ”で、
そうした政治状況に興味を示していない。
彼の興味は、もっぱら2つのことがら、
シェーンベルクたちの新しい音楽とフッサール哲学の批判的読解に注がれていた。

後年のアドルノが当時の状況を振り返る際に、
時によっては過剰と思えるほど苛烈な批判を展開する背景には、
>>38の指摘するドイツ青年音楽運動批判もそこに含めていいだろう)
当時の自分のありよう・ふるまいに対する忸怩たる思いが
どうしても見え隠れする。
「あれを許していた(気づかずにいた/黙認していた)当時の自分」を許せない、
といったところか。
そう解釈しないと、『啓蒙の弁証法』の基本的主張である
「ナチスはわれわれ西欧社会が必然的に生み出したものだ」というテーゼが
地に足の着かないものになるだろう。

「揚げ足取り」かもしれないが、
「揚げ足取り」すらせずにはいられなかったアドルノを、
オレは嫌いではないよ。