>>180
「進歩史観」という用語に根本的に違和感を感じるんだよ。

>ヘーゲルは、ある新しいものが、何の中間物もなく、一挙に、正統的に
>姿を見せるような場合でも、実はずっと前から形成されていて、
>今やその殻を脱ぎ捨てたに過ぎないのだと教えてくれている。
ヘーゲルの言わんとしているのは、そういう新しいものが「新しいもの」に見えるのは、
それ以前の中間段階を見損なっているからだ、ということ。
で、ヘーゲルの場合、細かく言えば事情は複雑になるけど、
歴史の現段階を肯定する姿勢を持っているから、最終的には、
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という
有名な言葉になる。今現にあるものは、突然現れたわけじゃなくて、
合理的な段階を踏んで現れたもので、現時点から振り返って見れば、
その合理的な中間段階は認識できるだろ?という話。

これに対してアドルノは、歴史の現時点に立って、現在に至る中間段階を
現在に至るために必要な段階として全面肯定するわけじゃない。
(俺の理解じゃ、結果的にそういう全面肯定になってしまうのが進歩史観)

現在の時点では、「こんなものは極端すぎる」といって排斥されるような、
「実験的」なものにこそ「真理が宿る」、つまり未来への萌芽があり、
そういう極端なものが最終的には伝統を形成することになる、という話。

アドルノは、1920年代末からシェーンベルクこそ正統と言い切っている。
現在の目から見れば、それほど極端な発言じゃないけど、
当時からすればかなりの冒険だろう。