(続き)
363さんの「シューベルトが、仰るようなことについては充分熟達していたことが 現実の作品として実感できる」云々
という部分についても、申し訳ないですが 理解できません。
“さすらい人幻想曲”の素晴らしいスケルツォ的部分は、シューベルトの霊感が途切れることなく楽想を全うできた、
人類にとって誠に幸福な結果でありましょう。しかし同じ時期の同じ人間の作曲であるといっても、すべての音楽が
同じような結果になるとは限りません。
残念ながら“未完成交響曲ロ短調”のスケルツォ楽章は、結果的に 霊感が途絶えてしまったものと考られます。
勝手ながら 私が憶測で書いたのは ただひとつ、私には このスケルツォは 決して自然な楽想が先に湧きだしたところから
作曲をスタートさせた音楽には聴こえない、ということなのです。
言い換えると、例えば「前二楽章と同じ基本動機を使って3拍子でスケルツォを創作すべし」というような 
おそらく自分に対してシューベルトが与えたであろう課題から、その作曲をスタートさせたように聴こえてしまうのです。
もう その冒頭から、「あ、どこか無理があるな」と、そう直感させられるような、そんな旋律なのです。
その結果、このスケルツォは 残念ながら、と言いますか、やはり、と言いますか 作曲家が自分のインスピレーションを
奮い立たせて楽想を持続させることが出来なかった、一言で申し上げると、霊感が途絶えてしまった音楽である、と、
そういうことではないか と言いたいのです。
以上を踏まえ、失礼ですが 「未完成」の残されたスケルツォ楽章の断片を聴いて頂き、
そしてもう一度>>493>>494を お読み頂きたいと重ねてお願いするものです。
その上で なお363さんは、私が シューベルトのことを
「多楽章ソナタを作るのに、思いつきだけですらすらと書ける」作曲家だなどと 
本気で思っている「善良な」ヤツだ、と「保証」なさろうというのでしょうか(!半泣き)。