フランツ・リスト総合スレ6
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0289名無しの笛の踊り
2008/01/15(火) 14:53:25ID:HsMRO7M1http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E9%81%93
衆道(しゅどう)とは、若衆道(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の形態。別名若道(じゃくどう)、若色(じゃくしょく)。
平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。
日本への男色の渡来は、仏教の伝来と時期を同じくするとされる。仏教の戒律には「女犯」というものがあり、僧侶が女性と性交する事を忌避するものであった。
そのため、代替としての男色が寺社で行われる様になった。(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者たちである。)
近代までの資料によれば衆道の元祖は俗に弘法大師空海といわれている。
平安時代にはその流行が公家にも及び、藤原頼長が『台記』で複数の男性と同衾している事を表しているため、その様子が伺える。
また源義経と、弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との主従関係にも、制度的な片鱗を見出す向きもある。
北畠親房が『神皇正統記』の中で、男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている。(室町時代においては、足利義満と世阿弥の男色関係が芸能の発展上、大いに貢献したと評価されている。)
戦国時代には、戦国大名が小姓を男色の対象をした例が数多く見られてくる。織田信長と前田利家・森蘭丸[1]ら、武田信玄と高坂昌信、伊達政宗と只野作十郎のほか、上杉景勝と清野長範なども例としてあげられるが[2]、
その他も含めて、中には主君の主導に因らないとされる関係もある。
一例として、信玄から昌信へ宛てられた手紙は浮気を謝罪する内容である。
江戸時代においては陰間遊びが町人の間で流行し、『好色一代男』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人のもてあそび七百二十五人」と書かれており、この中で「小人」とは少年を意味する。
このように近代まで男色は盛んに行われていたが田沼時代を経て幕末には廃れており、明治維新以降は脱亜入欧の考えからキリスト教的な偏見が入って異端視されていった。
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