音楽は何ものかを描写したり、表現したりしているという考え方に
とらわれていると、シベリウスの音楽は「解りづらい」ものになる、
と言いますか、それを見誤ってしまうのではないでしょうか。

シベリウスの交響曲はフィンランドの自然風景を描写したものではありませんが
「北欧的」とか「本場物」とかいう評を読んでいると、無意識的であるにせよ、
そうしたものに近いものとして一般的に捉えられているのは、まず間違いないことです。

シベリウスがフィンランドの作曲家であることや、曲が書かれた時代における
西洋音楽の動向を「括弧に入れ」、音楽そのものを聴くという姿勢で臨まない限り、
シベリウスの音楽は誤解されるように宿命付けられているように思われます。

聴き手がそこに何を見るかということとは無関係にそこにはただ音が在るだけである、
という厳然たる事実に戻ることを、シベリウスの音楽は絶えず要求してくる気がします。