音楽における評論の可能性
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0033kyrie ◆.RYdSpBfEI
2006/11/18(土) 21:52:16ID:f4XnE8gDうん、叩き煽りに負けず頑張る
>>32
対象と関係ないことを証明してくれ。
それこそ言葉遊びと言われるかも知れんが、
少なくとも対象に触発されているわけだし、
対象に、こう書かざるを得なかった、という必然性が精神分析学的にはあるはずだし。
逆に何の関係もないとは、どういう状況なの?
私は曲を聴き進めながら評論する。
だからまず体内に流れる信号、続いて鼓膜に届く音波、スピーカー、その先の
音楽、といったものに順々と「私は」関係する、その限りでの「私」は、確かに評論ではない。
また評論をする私、というものを考えてみれば、スピーカーの奥にある音楽、スピーカー、音波、電気信号
といったものどもは「私」を構成しはしないし、評論という反省的態度において、私は音楽ではない、
さらに現在する私ではない、という奇妙な状況に陥る。
一方で私はスピーカーと電気信号を区別したりはしないのであって、
その意味では「私はスピーカーであり、電気信号であり、音楽であることに没入する」「私」を
見出す私は、さらに「現在」する私ではない。
この調子で演繹を進めれば、なんだか新たな批評の道が開けそうだぞ!
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