音楽における評論の可能性
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0016kyrie ◆.RYdSpBfEI
2006/11/17(金) 21:17:16ID:pKliVqdWを選んだわけだ。それに一抹の「表面的な」カッコよさを認めた上で。
私は「主題が置換される」と言わなかったか?
ブリテンの場合、まずもって楽想があって、その印象を、何もカッコよさなど先行させず、「心の内に誰もがもつ湖」と
純粋に記述したわけだ。
本当にカッコよさを狙うなら、私は使い古された「内」などという表現を用いない。
逆に言わせてもらうが、「みてくれのカッコよさ」などという表現は、完全に使いまわされた「表面−内部」
などという心理的空間的構図を前提しているわけだが、私はそれを回避する。
それを恒常的に回避するからこそ、あえて回避を回避したあのブリテンの記述は、どこまでも純粋な印象であるのである。
>でもさあ、6楽章の曲が2段落になったり、全然曲の構成が文章に反映してないじゃん(-.-;)。
>「正確に」って、主題の反行とか、逆行とかはどう記述するのかなあ?
これには正直にお答えする。
30分の曲を曲の展開どおりに記述すると、一体何行になるのか。
例えばソナタ形式の場合、私は評論をソナタ形式になどしない。
主題の言葉による表現は、あくまで聴かれた印象から派生したものであるから、
それが逆行するにしろ、拡大するにしろ、まずもって印象が先行するからこそ、
それが逆行あるいは拡大した結果としての印象を記述する、それもそれが記述
するだけの効果を評論に与えている限りにおいてだ。
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