年に一度、ジョナサン・ノットがNHK交響楽団にやってきた。彼は四十過ぎの小男で、
殆ど誰とも口をきかなかった。リハーサル・ルームに入ってくると、コンマスには目も
くれず指揮棒を取り出し、面白くもなさそうにウェーベルンを振りはじめた。それから
金管楽器の不具合を調整し、難しい和音を処理し、2、3指示を与えると、やれやれ
といった顔付で演奏を終えた。そしてコンマスに向かって何も問題はない、
という具合に肯いて出て行った。煙草が半分燃え尽きるほどの時間しかかからなかった。
 僕は煙草の灰を落とすのも忘れ、アシュケナージはビールを飲むのも忘れ、二人は唖然
としてその華麗なテクニックを眺めたものだ。
「夢みたいだ。」とアシュケナージは言った。「あれだけのテクニックがあればバンベルク交響楽団
との契約は軽いね。いや、ベルリンフィルだって振れるかもしれない。」
「プロだもの仕方ないさ。」と僕はアシュケナージを慰めた。それでも音楽監督の誇りは
戻ってこなかった。
「あれに比べれば、僕なんてまだ指揮棒を手に刺したぐらいのものさ。」アシュケナージは
そう言うと、黙りこんだ。そして会場がスタンディングオベーションをして彼を向かえる
あてもない夢をいつまでも見つづけていた。
「あれが仕事なんだぜ。」と僕は説得を続けた。「始めのうちはそりゃ楽しかったかもしれない。
でも、朝から晩まであればかりやってみないよ。誰だってうんざりするさ。
「いや、」とアシュケナージは首を振った「僕はしないね。」