先月日本に一時帰国したとき、空港からの帰りの電車で少しだけ違和感を感じたことがあった。
 乗客の話し声が(もちろん日本語だが)、かすれているように聞こえるというか、きんきんしているというか
低音がなく、中高音だけで話しているように聞こえたことだ。
言葉と音楽の結びつきは常々言われていることで、私が繰り返すことのほどでもないが
これは響きについても言えることだろう。今月中旬に東京で聞いた東フィルの演奏もそう、そして今日のN響の演奏もそうなのだが
音のぐわんという広がり、幅、深みがほとんどといってない。
筋だけでできている神経質な音というか、完璧なまでに縦の線はあっている
(その意味で東フィルよりは段違いに「うまい」)のだが、いつもこのフィルハーモニーで聴ける
豊かな音の広がりが全くない。レコードの音が「ドイツの音」だとすれば、N響の音は「CDの音」である。
鮮烈ではあるが、幅がない。音の余韻もない。音楽にまとわるオーラもない。
 これを、「欠如」と取るか「日本的な音」と解釈するかは難しい問題だが、例えば幻想交響曲の冒頭。
冒頭数小節でリタルダンドしていくところ、普段だったら暖かい音が集まっていって、一旦休止するところで、
ファンタジーの豊かな世界がホール一面に広がる場面であるが、今日のN響のような演奏ではこういったものが
まったく期待できない。だから、情緒・感情表現に欠けるところがあると思われても仕方がないところがある。
概ね縦の線はあっているのだが、ところどころでこうした神経質な音色が地金を見せるというか
きー、きーんという金属的(非音楽的)な響きが耳障りで、これはヴァイオリンに限らず
低弦、木管においてもそうなのだから、もうオケの「響きの文化」にまでなってしまっているのであろう。
良いことではないだろうが、先ほど書いたような日常生活の響きの感覚と結びついているのだとすれば一朝一夕に変えられるものでもない。