>>283
とにかく、「誤解されている」端的に表現することを
私は選択したわけです。
やり取りが対話的に発展するという望みも持ち得なかったですし
冗長にして不毛なやり取りが続くことを恐れたからです

あなたは、そう思わないかもしれません。
ですが、少なくとも私は「誤解されている」と感じているし、みなしてもいます。

「補正」(と、あなたが呼んでいる行為。それがどういう行為であり、
どういうメカニズムで起こるものなのか私には分かりかねますが)
をしながら音楽を聴こうとする習慣を、私は全く持ちません。
少なくとも私の意志としては、存在していません。

指揮者の言説と、指揮者の演奏に対する私の感受性は、私の場合(おそらくほとんど)
無関係です。
ラトルの指揮による演奏についても、ラトルの言説を知る前と
知った後で、感じることが変わったかといわれれば、それは否です。
もちろん、たとえば言説により演奏を頭の中で美化するというようなことは(もしそんなことが可能だとしても)
無意味です。
もっと、融通無碍な状態で音楽を聴いています。

指揮者の言説も考慮しながら演奏を客観的に分析することは、演奏を聞いて味わうこととは
私の中では別の行為です。
たとえば、ルノワールの絵を前にしてその美しさに恍惚となっている瞬間もあれば、
冷静にその技術や美を生み出すメカニズムを光学的に考えたり構図を論じたりすることもある。
どちらも、同じ人が、別のスタンスで作品に向かっています。
ごちゃまぜにはなりませんよ、そこは。
ラトルの演奏についても、同じだと思いますよ。