>>261
>なかなかの卓見だと思ったよ。
いやいやどうも。お褒めに預かり嬉しいです。

>ストーリーが途中で変わってしまっている
という説がナンセンスなのは、はじめから明らか。相手にする必要もない。なぜ、あんな
捻れたストーリーになっているかという探求を放棄した思考停止にほかならないからね。

さて、259さんの、
>パパゲーノ&パパゲーナの「普通の」幸せこそが モーツァルトが一番言いたいことだった
というのは、なるほどと思った。この辺は、パミーナとパパゲーノの2重唱「愛を感ずる
男たちには」などに、見事に表現されているね。当時のオーストリアの庶民は、こういうもの
にたしかに感動したのだろう。

この対比で考えると、タミーノとパミーナの愛は、仮に2人が個人として誠意を持って愛し合
っていたとしても、ザラストロが仕組んだ政略結婚という要素を抜きがたくはらんでいる。
タミーノは「旅の王子」ということになっているが、一体どこの国の王子だったのだろうか?
おそらくどこか辺境の小さな領邦国家あたりか。 これが、3人の侍女が渡すパミーナ
の絵姿によって、ザラストロの城に引き入れられ、巧みにザラストロの子分にさせられ、
ついに夜の女王を地獄に突き落として領土拡張に成功したザラストロによって、そこの傀儡
国王に任ぜられるというわけだ。
こんな「作り物」よりも、パパゲーノ/ナの間の庶民の愛のほうが、たしかによほど本物だろう。
だとすると、「魔笛」は、極めて隠喩的・遠まわしに、当時のハプスブルク帝国の政治を批判
したものだとみることもできる。モーツァルトがフリーメーソンに加盟したのも、当時のハプス
ブルク帝国の体制や、その国教であるカトリックに不満を抱いていたからだとかんがえれば、
こうした推論に根拠もありそうだ。

だとすれば、ますます、最後の大団円にパパゲーノ/ナは、出すべきでないね。
いったい、最後の大団円の舞台にパパゲーノ/ナを出すという演出は、いつごろから行われ
るようになったのだろうか。海外の演出ではどうだろう。深く考えないまま、「みんな平等に
祝福を…」とは、いかにも日本的な発想だという気もするが。