このクライマックスで何よりも驚くべきは、どれだけ大音響になっても、
この旋律が決してそのリート的/内面的な性格を失わない点である。音響が
増せば増すほど、ますます聴き手は各々の内面世界へと深く沈潜していく。
これは聴衆から喝采を浴びるための音楽ではない。交響曲であるにもかかわ
らず、それは祈りの音楽なのだ。何よりの証拠は、この第三交響曲がライブで
演奏される時、最後の響きが消えても、★★例外なしに★★ 誰一人として
しばらく拍手をしようとしないという事実である。それはまるでミサの後の
ように、一人一人がさまざまな思いを胸に静かに去っていくことを、暗黙の
うちに求めている音楽だともいえるだろう。
     (岡田暁生『西洋音楽史』中公新書、p. 194 「★」印は漏れ)

漏れも↑にマターク同感だが、世界に稀なる未開土族「大阪のおばちゃん」族に
対しては全然通用しなかったようだw
またダイヒルガショーダンも「祈り」とはおよそかけ離れていたな。
さすがにソロはその境地を少しかいま見せて(聞かせて)くれたが。