>>209
田中角栄専門家だった立花隆が、いつのまにか科学評論家になってる
ようなものかなあ?
良いふうに考えたら、アドルノのように、新ウィーン楽派の伝統を持ちつつ
オールラウンドの啓蒙主義のような立場を、日本の批評家もとろうとした
んだけど、いかんせん楽譜の読めない小林秀雄しか生まれなかった、
ということでしょうか?(←この話は無茶苦茶?)

>>210
>学会の一線で活躍する音楽史家や音楽学者は、どうして大衆的な評論雑誌に
>あまり出てこないのかということです。
これは、現代だけがそうなの?それとも、日本の音楽史がそもそもそうなの?

たとえば音楽の友社の「名曲解説全集」はプロも読むかもしれないが
アマチュア読者の方が多分多くて(現在30代前半の俺の中学時代の愛読書)、
そういう原著論文ではないものも、諸井三郎のような一線の作曲家が書いている。
昭和期の音楽受容は「大衆と一部の専門家の両極化」という視点で括れるのかなあ、
という気がする。

あらえびすや山根銀二や小林秀雄は楽譜を読めなかったと思われるが、
吉田秀和は東大仏文のくせに桐朋を斎藤秀雄と共に作ったりして、
楽譜が読めないとは思えない。堀内敬三にしても、作曲をしている。
昭和期の音楽評論は、そんなに酷かったのかなあ、というのが正直な印象。
これは、自分がレコード評論よりも、名曲全集や、スコアの解説の類を
熱心に読んでいたからなのだろうか。

クラシックの場合、「音楽学・美学の研究者集団←→レコード愛好家」という
関係の間に、膨大な数のアマチュア演奏家がいるわけで(自分がそうなんだけど)、
「原著論文は全然読まないけど、演奏家向けのアナリーゼは結構読む」、
という人々は多いと思う。で、そういう中間層に対して許光俊の言葉は
全然響かないと思うんだけど、それも含めて整理してもらえませんか。