第3楽章がボリュームたっぷりな演奏の場合、
安定感や終止感が強まる反面、未完の交響曲としての印象は薄まる気もする。
確かにアダージョで充足は得られるし、そのような鑑賞が伝統的にも主流だと思うけれど、
「起承転」迄で途切れるもどかしさを残すような演奏も良いと思う。
その先にあるべきものが残されているだけに。