ブゾー二がさらに問題だったのは、これに3度や6度を付け足してしまったことです。
これもオルガンストップからでしょうが、オルガンで3度や6度を付けるのは稀な例です。
つまりフーガに新たな声部を付け足してしまったのです。

バッハの無伴奏パルティータやソナタも同様です。
しかもこれらは明らかにヴァイオリンのためのものであるはずなのに
オルガン同様にオクターブの連発を使ってしまったのです。
さらに3度や6度も付けるという有様、ヴァイオリンのための曲をまったく別の曲にしてしまったと言えます。
ヴァイオリンという楽器の特性を十分に考えて作曲した楽曲をまったく別の曲に作り変えてしまったと言っていいのです。
こんなことが許されるのであればもはや何でも有りになってしまいます。

ゴドフスキーもまったく同様です、彼はさらに対旋律を付けてしまったりです。
もとよりバッハの原曲はそのままでです。その原曲もいじくるのであれば作曲ですが原曲のメロディー副旋律はそのまま借用し、
その上に対旋律を付け声部を付けたし、トリニティはそのままで半音階的和声を付けたしたり、リズムを変容させたりしているのです。
ショパンエチュードの右手と左手を入れ替えて演奏することに芸術的意義がどこにあると言うのでしょうか?
2曲同時演奏のどこに芸術的価値があるのでしょうか?

いいですか、感覚的なおもしろさとか技巧的な驚きで人を惹き付けることを否定しているのではないのです。
作品の何がすばらしいのか、何が問題なのか、それをいい加減に語る、同列に語ることを避けたいのです。
私はゴドフスキーのオリジナルな作品に対しては言及していません。

私は誰よりもゴドフスキーという人にインスパイアされている人間ですよ。