>>319>>320

1を聞いて10を知れなんてお前に言うのは酷だけど、せめて0.5ぐらいは知ってほしいよな。

お前が言ってるのは演奏者の立場としての話。演奏する側だけなら、ジャンルに限らず研究が必要なのは自明の理。もっとも、演奏者でもないお前がそういうこと言っているのが、こっちとしては恥ずかしいがな。

だが演奏行為はそれだけじゃ完結しない。聴く側の人間が必要だからな。聴く方法というものがある。この点もクラシックの学問性の1つだ。

ジャズを聴くのに、研究解釈の妥当性を主眼において聴くやつがどこにいる?他に聴くべき観点があるだろう。
お前はそうやって聴くのかもしれんが、それはお前の勝手だ。好きにしろ。
要するにジャズでは演奏する人間が研究していればいいだけの話。それを聴く側に押し付ける必要はない。
だがクラシックは、研究解釈を聴く側に押し付けなきゃいけないんだよ。批評家連中から常に、研究解釈が妥当かどうか、その観点から批評を受ける。
そういう批評文化によって、クラシック音楽が特殊なものとして認知されているんだよ。

日記に書いたのは、
学問性=聴衆へ自分の解釈を売りつける(押し売り)
エンターテイメント性=聴衆の求めるニーズを買い取って満足させる
ってことだ。
ジャズその他では、押し売りする必要はないんだよ。
だがクラシックは話が違う。ベートーヴェンらしさ、ショパンらしさ。
この《らしさ》を研究するのが、いわゆる解釈ってやつだ。
クラシックでは、演奏者の研究した《らしさ》を客に押し売りしなきゃいけない。

ちなみに、
>偉大な音楽学者がいかなる画期的な解釈に基づいて演奏しようとも、
>技術が伴っていなければ力量を認められることはないであろう。
となるのはなぜだ?それはおまえが
>研究結果の妥当性によって《のみ》演奏者の力量を判断されることは無い
と、勝手に《のみ》を付け加えて俺の文を解釈してるからじゃないか?

以上。