漏れは現代詩ヲタでもあるのですが、吉松の言いたそうな感じのことは
現代詩でも言えるのではないかと思いました。

戦争に負けて、金子光晴のようなボンボン放浪詩人であるとか、
大手拓次のような商業主義コピーライターであるとか、
北園克衛のようなモダニスト(←これが近親憎悪的に一番許せない系だったと思う)が
叩かれるなり無視されるなりして、とにかく「戦争への道」とその結果を
内在させない文学表現は有り得ない、という流れがあったと思う。

その後は、戦争に足をすくわれないように足腰を鍛えなおした
モダニズムが、形を変えてゲンオンと軌を一にして発展した。
もちろん、ついて来られない観客のことはさて置かれるわけだし、
学校の教科書には、これら60年代70年代詩のスリリングな展開は
掲載されるスペースがなかった。

90年代初頭あたりから、東欧が崩壊するとともに、
北園克衛が復権したり、飯島耕一が「定型詩」を必死に主張したり
(ショスタコ的な調性主義が西欧に流れたように思った)、
文学における伊福部昭的、あるいは大澤的なものの
見直しがはじまったように思う。