【フジ子・ヘミング】について
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0790名無しの笛の踊り
05/01/22 22:43:17ID:zxJgJglYトスカニーニは最後の演奏会では、指揮していた途中で曲を忘れてしまい、指揮棒を降ろしてしまい、引退した。
バックハウスは、最後の演奏会ではピアノソナタの終楽章を演奏できなかった。
このような巨匠たちの壮絶な最後を引き合いに出して、フジコヲタはフジコを擁護したがっているようだが、
はっきり言おう。
フジコはこの巨匠たちの足元にも及ばない存在である。
彼らの演奏中断やローテンポ、ミスタッチと、フジコのものとは性質がまったく異なる。
まず、フジコにホロヴィッツのごとき技術・テクニックがあったか。
シュナーベルは、ベートーヴェンのピアノソナタの校訂も手がけ、
老衰する前は、確実なテクニックで自分の音楽性を演奏で主張することができた。
ホロヴィッツは抜群のテクニックがあったので、自分の技術に沿った編曲を多数残し、
それは他を寄せ付けないものを持っており、演奏と音楽に対する主張とが融和していた。
この人たちは、演奏をおこなううえでの主張をおこなうために、老衰する前まで、
手を伸ばし続けていたのである。
人間は誰もは老いて死ぬ。老化に伴い俊敏性が失われる。
ただ、この人たちは、引退し自分の過去の栄光だけでも十分に歴史に残るものであろうに、
俊敏さが衰えた後にも、主張をし続けたことが、最も偉大なことだ。
では、フジコはどうであろうか。老いて朽ち果てるような状況か。
マスコミは過去の栄光云々を言うが、いつも音楽に対して謙虚に主張をし続けていたであろうか。
フジコヲタはそれができなかった理由を、障害者であったことに求めるであろうが、
障害者であったら、音楽に対しての主張ができないのか。それを障害を理由にすることを恥とおもう厳しさはないのか。
もともと、音楽に対する主張などというものはフジコにはなく、それを表現することもしようとしなかったのではないか。
そのような生き様のことを、「怠惰な生き様」と言えよう。
いつも手を伸ばし続けていた芸術家とはまったく正反対ということである。
フジコは老衰するどころか、金銭欲に目がくらんだ煩悩の権化のごときおばさんである。
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