少し深入りだけど・・  デュティユーが、伝統の拒否や追認をせずに創造的に止揚した
結果、見かけ上は「伝統的」(=通常の記譜法や奏法を使うといった程度の意味)になったと
言えるのかもしれないが、「芸術家がその責任と存在意義を問うてきた」ことは疑えない。
 これが「保守」で、その対立軸が「通常の前衛という意味」なんだろうか。
そうであれば、「通常の前衛という意味」には「芸術家がその責任と存在意義を問うてきた」
は、もはや脱落している(少なくとも「前衛」だけの特徴ではなくなった)。

保守、前衛という用語が持つ政治的な力が気になって、嫌だと思いながら拘ってしまう。