>>508
チェルカスキー。最初に聴くと、普通に抱いていたその曲に対するイメージと違うので、かなり驚く。
ところが、それらの解釈がきわめて入念に推敲されていることがわかり、いつの間にかピアニストのペースにはまってゆく。
例えば、素人がまずどこを聞くのかといえば、テンポとミスタッチの有無である。
チェルカスキーのテンポはおしなべて遅い。だが、そこで拒絶してしまってはダメ。
リスナーが自分の固有のテンポに過剰に縛られていては、適切な鑑賞はできない。
自分にとっての新しい解釈の妥当性を、その都度真剣に検証していく。
すると、真にすぐれた演奏ならば、遅かろうが速かろうが、そこに必然性が見出せる。
ホロヴィッツのテンポに関してはともかく、グールドにはこの「必然性」が徹頭徹尾欠けている。
ホロヴィッツの場合は彼の恣意性が必然性と対極的である。
チェルカスキーに戻そう。彼のペトルーシュカの「ロシアの踊り」は、ポリーニなんかに耳慣れてると止まりそうなくらい遅い。
ここで「遅いからダメだ」とか「下手なんでは」なんて言ってるならその聴衆は低レベルな連中だ。
なぜそのテンポなのか、「この」テンポでも妥当なのか、さまざまに考えていく(実際は音楽を聴きながら)。
そこで初めて、妥当性とか必然性とが明らかになってくるのである。
チェルカスキーにはずいぶん驚かされた。もう一つ例えばショパンのプレリュード作品28-16。
たいていのピアニストが1分くらいで弾き飛ばすこの短距離走みたいな曲を、
チェルカスキーはきわめて優雅に弾き進めてゆく。音と音との間・拡がりが目に見えるように明らかとなる。
ここで驚くべきことに我々は、音楽が時間的のみならず空間的な芸術であることを再認識するのだ。
アルゲリッチやポゴレリッチのように1分を切るスピードで弾く演奏家とは異なる次元にいる。

ちなみにそんな彼がホロヴィッツを敬愛していたというのは、実に皮肉ななんとも言いようのないことである(笑)。