ケージがよく東洋哲学に影響されたと言っているんですけども、ケージの場合は、
サイレンスということを、すごく重要視するから、つまり、音がある、ないとい
うことを、すごく重要視するから、そういう意味では、文節的で、東洋的じゃな
いのかもしれないですね。
しかし、東南アジアなんかの音楽でも、例えば、鐘がありますね。それを叩くと、
あるところから音が始まって、自然に消えていくというか、ゆっくり消えてゆく。
そうすると、切れ目というのは、認識できていないと思うんですね。フッと消え
ていっちゃって、ここから音がないところだということが言えないような気がす
る。どっかに漂っていて、そのままなくなっちゃうと思うんですけれども、ほと
んどの民族音楽の場合、鐘を鳴らすと、ちゃんと押さえるんです。カットするん
ですね。だから、それは非常に否定的ですね。分節化というか、それを大事にす
るんです。
それで、音をカットして、オフして、もう一度鳴らすと、つまり鳴るところ、鳴
らないところ、もう一度鳴るところ、これで初めて、周期ができますよね。それ
で、初めてリズムというものが生まれるんです。言語の場合と、どう関係するの
かな。