>>68
確かにご指摘の点でノーノとクラウス・ラングは対照的ですね。クラウス・ラングの音楽は、
そこはかとなく俗っぽいのがウリの一つであるとすら言えるでしょう。ただ、私にとって後期
ノーノの作品群は、その知的な構成もさることながら、あたかも音楽が「モノオト癌」に感染
したかのごとく、音楽の塗装がそこかしこで剥がれ落ち、ナマメカしいモノオトの地肌が
露出していくという「蝕」のプロセスが細部に横溢しているという点で、たまらなくセクスィー
なのです。いわばベンヤミン言うところの廃墟の美しさ。

実際に最晩年のノーノは、風の音を聞くために夜寝る時も窓を開けっぱなしにしていたり、
病床にあって戸外から聞こえてくる自然音を採譜したりしていたそうで、ノーノ自身がモノ
オトの亡霊にすっかりとりつかれていたようです。

モノオトは、高さや重なり方ではなく、一つ一つの音の肌に浮かび上がる表情において
最も雄弁であるという性質があると思うのですが、音の肌合いへの感覚の鋭さという点
では、(後期)ノーノもクラウス・ラングも特筆すべきものがあると思います。一方マル
ファッティの音楽は、モノオトというにしてはあまりにも管理統制されていて、むしろ
竜安寺の石庭のごとき枯れた形式美を感じます。モノオトというものはもう少しだらしない
ものではないでしょうか?