自分のピアノを省みる。表現は何かを考える。先生から何を学べるのかを考える。
他人から学べるのは、表現の可能性や「語法」のようなこと、音楽史のようなこと。
学べないのは、自分が何を表現したいのか、どういう表現ができるのか、ということ。
グールドのバッハの素晴らしさを学ぶことが出来ても、「素晴らしい」と思うかどうかは別。
思わなかったとしても、それは別に感性が鈍いからではなくて、感性の違いがあるからでしょう?
バッハのような音楽は緻密に作られているからこそ、表現の可能性が広いのだということ、
例えばそういうことは学ぶ意義があるとおもいます。だから学べることはしっかり学ぶ。
表現の可能性、というのは端的に言えば、一見して軽視されがちな「テクニック」ということに
集約されるのかも。絵を書きたい時に、この世にどういう絵があって、どういう歴史があって
どういう絵筆があって、どういう絵の具があって、どういう風にそれを使うことができるのか、
それを知らずして絵を書くことができるでしょうか?テクニックとはそういうことだと思います。
ところで、表現というのは一時のフィーリングによるものではないと最近気付いた。
それは即興性云々と言うのとはまた別に。だから今までは、自発的な表現とはもっともかけ離れた
ことのように感じていた音楽史や形式の分析なんかにも力を注げるようになった。
もちろんそれは翼を縛るものではないのです。
そういうことにピアノを辞めてみて初めて気付いた。
小さい頃から何の抵抗もなくピアノをただただ弾いていた自分になかったのはやはり反省と思考。
表現の可能性を探る為にピアノとの距離のとり方を変えてみたり、あるいはCDなどで
色んな音楽に触れてみたり、とにかく、幼稚な思い込みと無知が表現を縛っていた。
今の先生に悲観する前に、自分のピアノを反省してみるのもいいかもしれませんね。