>>393
そう課題を決めて書くのは、理路整然としていいんだけれども、最終的には
クラヴィーア説(さらにはチェンバロ説)に持っていく布石に利用されている
点が問題と言いたい。

例えば、様式論にしたって、平均律2巻に来れば、オルガン様式と分類されて
いるものもしばしば認められる。こうした説を取り上げないで、クラヴィーア
様式なるものを創説して、それを基準に判断しているだけであって、「妥当な
推論」ではないんではないか。つまり当該個所は「手が届かないからといって、
クラヴィーア曲でないと断定することは不可」であると同様、クラヴィーア曲で
あることの証左にもなっていない。弾けないんだもの。

こうした帰謬論は、相手の主張をかわしていき、自説を間接的に補強するには有
利なんだけれど、結局は反措定でしかないんですよ。
演奏不能な個所は、結局は実演可能な形態に改編されるべきなんでしょう。
しかし記譜がそうなっていないのは、ある節度の範囲内で鍵盤を利用したり、また
鍵盤を想定して書いているけれど、発想の源泉に曲を構成すべき「理」「構想」が
あるから。
そしてその構想は、ラテン語で表記し、歴史的なスコア形式を用いたパラダイムと
しての作品で、バッハが「フーガの技法」という作品に持たせたかったもう一つの
性格でしょう。レオンハルトの場合自説を強調するあまり、いささか無理な主張を
かさね(砂上の楼閣)、「フーガの技法」がもつ一面を捨象しようとします。この
説論の態度が酷い、と思うんですよ。