アンタル・ドラティ Part2
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0305名無しの笛の踊り
03/12/24 09:33ID:2tU1XL1r1933年、ナチの台頭に危機感を持ったドラティは、妻クラリとともに
ベルリンからパリに逃げ出した。パリでは知り合いも殆ど無く、当然指揮者と
しての仕事にはありつけない。そこで、安ホテル住まいをしながら歌手の
コーチをして糊口をしのぐ。そうこうするうちに色々知り合いが増え、
フランス国営ラジオ(当時はPTT (Post, Telegraph and Telephone)といった
そうな)にもつてができた。
当時のPTTにはオーケストラが無かったので、ドラティは知り合いの歌手と
臨時編成のオケでオペラを放送する企画を立てて了承されるが、予算が殆ど
無いので、モーツアルトの劇場支配人とグルックのL'Ivrogne corrigeを
やったそうな。ただし、このような重要なイベントの監督が外国人なのは
ふさわしくない、ということになり、名目のみの監督が別に立てられる。
このフランス人の若い指揮者は、ドラティが急に倒れた場合には代わりを
勤めるということで、演奏中はスタジオの中にただ座っていただけだった
という。ドラティによると、当時のパリでは外国人が芸術サークルの中心に
入って活躍するのは大変困難だった由。
この放送は大成功で、この臨時編成のオケも存続することになり、後の
フランス国立放送管の母体になったという。ドラティもこのオケの指揮者の
ポジションを打診されるが、断ってイギリスに渡りモンテ・カルロ・バレエ
の指揮者になったそうな(当時このバレエ団はモナコよりもイギリスでの活動
が多かったという)。ドラティがフランスやイギリスに渡った時、仏語は殆ど
、英語は全くしゃべれなかったという。いくら音楽が公用語だとはいえ、
凄いことだと思う。
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