1969年の来日時、リヒターはいつまでも残るレコード録音と、1回限りの演奏会を明確に
区別していたと思います。まさか後日ライブCDになるとは思ってもみなかったでしょう。
演奏会では、その時のインスピレーション、即興性というものを大事にしたと思います。
事実1969年6月号の「レコード藝術」に、皆川達夫氏との対談で「ステージに出る時、あ
そこをこう演奏しようとか一切考えない。無の境地でステージに出ます。」と語っています。
実際ライブに行った者としては、まさに鳥肌の立つような生命力溢れる、リヒターの身体
の細胞、そして心から湧き出る指揮に、ミュンヘン・バッハが呼応し、楽器のバランス云々
という低次元の事ではなく、バッハの魂ここに極まるという演奏で、会場の東京文化会館に
入る前と後では世界観が変わってしまう程の感動でした。これは私の独りよがりではなく、
当時鋭い評論をしていた音楽評論家たちがこぞって絶賛した事からもわかります。中でも
特に印象に残っているのは、当時の音楽評論の第一人者だった村田武雄氏が、「マタイ」
の終わった後鳴りやまぬ拍手の中を、「すごいものを聴いた」という表情で私の席の横に
ある階段をゆっくりゆっくり上って来られた姿です。後日村田氏は6月号の「レコード藝術」
の巻頭言に「心を聴く! リヒターのバッハ」と題して賛辞の文を書かれています。
1969年のライブCDについて、いろいろな意見をお持ちの方がおられるようですが、以上の
事を考慮に入れて単に耳から聞くのでなく、全ての音楽を聴く時に一番大事な心で聴いて
みると、リヒターがあのライブで表現しようとしたバッハがわかるのではないかと思います。
(あえて「聞く」と「聴く」を区別して書きました。)