手元にある資料では、リストの推薦で自作のオペラを上演したとあるので曲を見てもらってたのかな。
でもピアノも弾いていたみたいだから、ピアノの弟子だったのかも。
兄弟子に当たるビューローの『カルメン』の指揮を「作為的」と非難したとか。
日本に来日した時に、「リストの伝統を守る必要がある」というような発言をしたみたい。
ザウアーとの協奏曲の録音でもリストの伝統を残すという意図があったとか…。