宇宿の音楽は果たして「幽玄」なのか。

「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。(桜の花は真盛りの状態を、月は雲の陰り一つ無い状態を愛でるものだろうか。いやそうではない。)
徒然草に出てくる、この「言いおおせて何かある」というのが、日本人の幽玄のイメージだろう。
そこで宇宿の芸術は幽玄だ、というとここのアンチ連は、それでわざと下手なアマオケを弾かせて、実際はもっと素晴らしいはずと想像させるのが手なんだとか書くんだが、
宇宿の音楽の魅力は幽玄さにあるのか?

「ペールギュント」のCDを聴くと、いわゆる通俗名曲で難曲でもないせいか、オケ(バイオフィル)の傷も目立たず、宇宿のやりたいことがかなり分かりやすく表現されている。
例えば「オーゼの死」の響きなど、北欧と言うより、「荒城の月」の連想させられた。
極めて日本的な歌わせ方ではあるのだが、とにかく熱度の高い音で細部まで徹底して歌わせようとしているので、
非常に直截な感じを受けるのである。宇宿は何も隠そうとしない。
それは「幽玄」ではなくて、「益荒男振り」だ。
無難にこなすなんてとんでもない、自らの傷も隠さず、とにかく熱っぽく表現しようとする。
それがショスタコーヴィッチの5番などにも表れているのだろう。
「益荒男振り」を「アポロ芸術」と言い換えられるなら、それが宇宿の音楽だと思う。
変に枯れた宇宿など、見たくない。