「音楽」という日本語(明治期の誤訳)に囚われすぎるから本質が見えなくなる。
様々なテーゼを弁証法的に検討していくと最後に残るのは「時間を享受する」ということのみになる。
すると、演劇、映画といったジャンルとの境界がなくなってしまう。