パガニーニ変奏曲の場合、2分冊からなっていて、おのおの終曲があるわけで、
演奏会にかけようとすると、どうしても選択を迫られることになる。
どちらか一方の分冊を弾くのか、全部を弾くのか、それとも自分で配列して
一つにまとめるのか。ミケ氏の場合も、その回答の一つとして受け取るべきでしょう。
その配列に意味があるのかどうか、最上のもの(の一つ)かどうか考えるのは、
聴き手の仕事。個人的には、ミケ氏が最後にまったくブラームスに由来しない
和音を付け足してるのはやめた方が良かったのではないかと思うんですが。
この辺など、戦後に活躍した世代のピアニストしては非常に特異な選択といえる。
この人の知性は、「楽譜に忠実に」というイデオロギーには当てはまらないものであった
といえるんじゃないかな。ブラームス自身は
「一冊目を弾いて、お客さんがまだ聴きたりないようなら、2冊目を弾けばいい」
みたいなことを言ってたそうで。まあ作曲者の意思に則った演奏が
最上の演奏なのかどうかとか、考えればキリは無いですけどね。

ちなみに、似たような例として、シューマンの交響的練習曲があるけど、
大抵、初稿と改訂稿と遺作を適当に混ぜて演奏されるわけで、
普通別にそのことを問題にはしないですよね(本当はすべきなのかな?)。

ま、少し飛躍すると、ミケ氏の独自だった点として、19世紀的なもの考え方と
20世紀的な感性の非常に独特な融合があったというのが私見なんですが。
どうでしょう?