しかし、ショパンとリストは同じピアニストでも全く別のタイプの作曲家であり、同じ範疇で比較するのは大間違いだ。
また彼の管弦楽作品は同時代のベルリオーズやワーグナーと比較して、管弦楽法の色彩感からやはり評価が低い。
その点では物足りないのも確かである。しかし、彼は「標題音楽」という概念を生み出し、標題を付ける事で音楽の持つ
「詩的観念」を予め聴衆に示した。それが「交響詩」という形で実を結び、後のスメタナやドビュッシー、R・シュトラウス、
レスピーギ、シベリウス等によって受け継がれ、多くの傑作が生まれた事は、大いに評価されるべき点であろう。
もう一つ、これは一番問題な事であるが、リストのピアノ作品が単にピアニストの技巧を見せる為の道具にしか使われて
いない場合が多い事である!つまり、ピアノ演奏会で、或いはコンクールで、華やかさを出す為にリストの技巧に
富んだ作品を持ち出して、その場を凌ごうとする物である。
これは今日リストの作品の評価を数段低い物に落としている最大の原因となっている。
リストは技巧の為の技巧は使わなかった。彼にとっては、内的な感情、或いは詩情こそが全てであり、技巧はそれを
表現する為の手段でしかなかった。だから詩情無くしてリストは弾けない筈である。しかし、それは今日に始まった事で
はない様だ。事実リストは、そういった思い上がったピアノ演奏に対して批判を唱えている。