妻は突然立ち上がり、自らに言い聞かせるように言った。
「行かなくちゃ・・・」
「どこに行くんだよ。今日は俺が晩飯を作ったんだぜ」
「だって、芋と豚肉を煮ただけじゃないの。今日はレオンハルトの
 リサイタルがあるのを忘れてたわ」
「レオンハルトか・・・そうだ、今日はいいワインがあるんだ」
「こんな料理なのに?ボルドーもブルゴーニュも合わないわよ」
「これだよ。レイヤスのシャトーヌフ・ドゥ・パプ」
「ヌフ・ドゥ・パプ?大味なワインじゃない」
「これは別物。レイヤスじいさんの最後の作、貴重品だぜ」
「レオンハルトよりいいの?」
「まあ、飲んでみろよ。BGMはマタチッチのブル8だな」
「凄いわ!こんなに重厚なのに何て華やかなの!ごめんなさい、
 こんな野暮ったい料理でもポール・ボキューズを思い出しちゃったわ」
「だろ。そして、マタチッチのこのアダージョ。ピッタリだろ」
「レオンハルト、ちょっと残念だったけど、これなら仕方ないわね」
妻は頬を赤らめ、唇の右端をちょっと上げる、ご機嫌の表情をみせた。
今夜は長い夜になりそうだ。