>>936
釣られてくれてありがとう。

話の流れもさることながら、あなたこそこのスレの意義を理解していませんよ、と返しとこう。
クラシック音楽を「語ってはいけない」のかどうか、ですからね。

音楽ってのは原則的には表象芸術ではないですよね。 言い換えれば最も言語に変換しにくい、というかむしろそれを拒否してるんですよ。
だからこそ何百年もかけてヨーロッパの作曲家たちは,和声とか対位法という文法でそれを理解、伝達、継承し、楽譜という手段で記述したんでしょ。
つまり本来「語る」ことのできない音楽をいかに、物理的にでなく知的に処理するか、どうやって言語に近い形に変換するか、その答えが楽譜ですよ。

だから楽譜を読むってことは演奏してそれを具現化する他に、 音楽を「語る」語彙と文法を得るということでもあるわけですよ。
あなたが作曲家だったらそのくらい言われなくてもわかるでしょ。

で楽譜を読まずに音楽を「語る」ってのは、どうやるの?
「失恋の響きがする」とか「神の啓示だ」とか「乳首を舐められるようなむずがゆさを覚える」 みたいな語彙に変換するしかないんじゃないの。
でもそういう表現は音楽自体とは本質的なつながりはないよね。 だって素晴らしい音楽ほど言葉にすることが出来ないじゃないですか。
コーホーの言葉の羅列が彼のリビドー意外は何も意味していないのもそういうこと。

もちろん、それでもかまいませんよ。 私が言いたいのは、音楽の語彙や文法を頑なに拒否して、 日常の言葉や文学的なクリシェでのみ音楽を語ろうとするのは、
かつてニュース・ステーションで解説してた菅沼さん(だったっけ)ぐらい 喜劇的で悲劇的だということをお忘れなく、ということです。

ところで「楽譜を読むスキルと音楽の理論を身に付けるスキル」ってのはどう違うんですかね。
これ単純な質問。
音楽の理論がわかってなくてもバイエルぐらい誰でも弾ける、ってのは無しね。