吉松氏の場合:

彼の作品をなぜ頑なに拒否してきたのか。それはある雑誌のインタビューをたまたま読んだことから始まります。
吉松隆が現代音楽に対して挑発的な言動をしていることは周知のとおりですが、それ自体についてはべつに「ちょっと調子に乗ってるな」くらいにしか思ってませんでしたし、彼の取り組み方そのものがひとつの現代音楽の帰結として(ある程度好意的に)見ていたほどです。

インタビューには次のような言葉がたしかありました。
「現代音楽家をひとつのホールに集めて天井を落としてやろうと(笑)」

読んだ時期は阪神大震災から間もない頃。
建物の倒壊がどのようにおこるか、目の当たりにした被災者として、その傷の癒えない一人の現代音楽家として、正直怒りを感じました。

あの震災で亡くなられた方の中には現代音楽ファンもいたでしょう。
私たちの不幸を望む人間の作品を紹介する必要がどこにあるのでしょうか。

つまり演奏しないことによる減収を懲罰と考えた、ささやかな意思表示だったのです。

しかし震災後すでに時間もたち、氏の発言も震災を想定してのものではもちろんないので、もういいでしょう。少なくとも作品自体は今流行りのものよりはまともですから。

高橋氏の場合:

高橋悠治に関してはすこし理由が違います。

彼の「思想ごっこ」については書くのもわずらわしいので略しますが、かつて「戦う音楽」で他を批判したわりには、現在の自分を総括することもできない、なんだかなぁ・・・という感じ。

簡単に言えば、そんな彼の「思想ごっこ」に付き合う気持ちがないことと、同じように著作権使用を通じて中途半端な行動に金銭的援助などしたくない。
これまた演奏しないことで、彼の人格に対してちょっとした批判をしたつもりです。演奏家が作曲家にできる抗議活動はとにかく演奏しないこと。私一人がそんなことをしたところで痛くも痒くもないでしょうけど。

しかしそんな彼もすでに過去の人。活動も目立たなくなり、21世紀になった今、作品だけは20世紀現代音楽の一ジャンルとしてみてあげるのもいいかな。