何か議論白熱してますね。
「天才」概念を云々したのは私ですが、だから作曲家個人の問題と聴取の問題はまずは別に考えた方がいい、というのが一つ。
それでも、作曲家といっても、「聞き手」の側面があるのだから、そこで「未聴感」の問題が生じるだろうというのが、もう一つ。
今の時代に「作曲家」と名乗るならば、ある意味あらゆる音楽を聴いていることが前提でしょう。ポップスだろうと、民族音楽だろうと。
その上で「未聴感」をいうのなら納得できる。
 それから、未聴感の「閾値」の問題ですが、50年代から60年代にかけてのあらゆる実験によって、ある意味、これ以上やったら聴取の閾値を越えてしまう、というところまで行ったんではないだろうか。
前に出ていた湯浅氏と三善氏の発言にあった「行き過ぎ」もこのことでしょう。
 そうすると、「未聴感」の基準も単なる技法的なことだけではなくて、すでにある技法の「使い方」のほうにシフトしていってもおかしくないですね。今まで名前が出た武満賞のファイナリスト達もそういう傾向があるんじゃないかなあ。
 タジュディンとか窪田とか。調的ではあるけれど、今までと使い方が違う、ってことなんじゃないの?