>>53
当時の受難曲に市民層の聴衆が求めていたものが、モダンなオペラ風のアリアやアリオーソ
だったことはハンブルクの例からも疑いがない。ライプツィヒではじめて受難オラトリオが上演
されたのは、1717年の「ブロッケス受難曲」だが、その際にシャイベルはこう書き残している。
「大勢の人々が早々に教会に押しかけてきたが、それはもちろん説教を聴きたいためではなかった。」
その「ブロッケス受難曲」でさえ、バッハの両受難曲と比べると質素なものであってオペラ的要
素は少ない。
しかし、ライプツィヒの教会当局はオペラスタイルの導入には極めて慎重であり、カントル就任
にあたってバッハが提出した誓約書には、「音楽はあまり長くなりすぎぬよう、またオペラ風の
華美に流れることなく云々・・・」という一項が特に設けられている。
事実、1722年に上演されたバッハの前任者であるクーナウの受難曲を見ても極めて簡素なものであ
り、それからわずか2年後にバッハの「ヨハネ受難曲」を耳にした保守的な聖職者層がどのように感じ
たかは想像に難くない。確かに直接楽曲を批判した文書は残っていないが、ヨハネ受難曲上演後に
バッハは大教区監督からきつく咎められている。公式の理由は、バッハが慣習に反して演奏会場を
勝手に変更しようとしたからだが、受難曲演奏の前の段階では、当局も寛大な態度を示し、チラシを
印刷しなおす費用まで負担している。それが受難曲上演後に、突然再びバッハに対して厳しい非難
が為されるのは何故だろうか。
さらに、1725年の春以降、教会暦に従ったカンタータの作曲を中断してしまったように見えるこ
と、また1739年に至っては受難曲の上演自体を差し止められてしまったことなどを考慮しても、
教会当局の一部がバッハの受難曲をクーナウやテレマンのそれと比べて著しく「オペラ風の華美
に流れている」と苦々しく思っていたであろうと考えることは根拠のないことではない。