「表現」としての「余裕」
それをこそハーンを最初に聞いたBPOとのショスタコで感じました。
スコア全体を隅々まで把握し相手を聴きながら、楽曲全体でのソロパートの「意味」を発信していた。
技術以上に音楽の余裕がないとヤンソンスBPO相手にあの対等のやり取りは無理。
ヤンソンスはヤンソンスを出してたからね。
やり取りといってもバトル(競演)ではなく同じ方向を目指し一緒に盛り上がって行く共演でした。
自分は聴かなかったがベートーヴェンの方も
「アバドの遅い2楽章に間が持たないようなことなくのびのびと・・・」
というようなことが書かれてて、解かる気がした。
ジンマンとのCDでは標準か若干速めの方に属する演奏と思われ、それだけ幅があるということかと。
合わさせず、相手の力を出させる(まさしく余裕がある)から共演者によっていくらでも化ける気もする。
自己中、自意識過剰、そういうスター的ソリスト像からは一線を画する。
多分ソリストとして弾くことの意識が違うと思う。
彼女を思うと個性的とかいう言葉で誤魔化して自分勝手に弾くソリストのなんと多いことか。
まるで自らの自己顕示欲を満足させるための「手段」のような音楽。
ハーンに幅がないと言う人の気持ちはとっても解かる。そう言う意味では何も無いもの。
彼女の表現はそんな表層ではない所を目指している。音楽の核心へ。