水野修孝ネタ
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0009名無しの笛の踊り
NGNG「music today」vol.5,1989
「<現代>を生きる意味」〜グバイドゥーリナの音楽に触れて〜
と題される一文
前半でグバイドゥーリナを絶賛し、後半では「オケ・プロ98」の評文のかたちで
水野、三枝作品を酷評している。
水野作品を「巨大な音響を駆使した長大な作品」と規定した上で
曲の終結部のキシロフォンのトレモロを「小屋掛け芝居の擬音のように鳴く
ヒグラシ」と皮肉る。そして、これがこの作品を象徴しており
「説話的な時間が過ぎていったにすぎない」「実に芯がない」と言いたい放題。
挙句の果ては「たあいない作品」とまで。さらに
「無際限の自己陶酔の蜜にからめられた十九世紀末的退廃」は「層を成す
事のない<時間>」というとどめまで刺している。
続いて三枝作品と併評するかたちで「数世紀前に語らい了えた作品」という
自己批判まがいのことをかいている。
武満らしく「ふたりとも繊細な耳の所有者のはず」というエクスキューズを
挟んで、ふたたび攻撃開始。
「歴史を十万年単位で考えているから」という水野の弁明には耳を貸すものの
「歴史上、はるかに多くの音楽的情報を持っている現代作曲家は、最も豊かな
綜合的な音楽を実現しうる」という水野発言を「疑いを知らぬナイーヴな信念」
としたうえで「歴史感覚の欠如」とまでいいきっている
結びにグバイドゥーリナを再登場させ、「(彼女の作品は)過去の技法が
再検証され、精錬され」ており「紛れもない現代の音楽」としている。
おなじ折衷主義でも「グバイドゥーリナ」と「水野・三枝」とでは
水と油、雲泥の差があると言いたいらしい。
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