上野駅前の東京文化会館でブルックナーの≪第七≫を聴いたときの想い出話である。
終演後外に出たら、楽屋口に愛好家の列が出来ていた。
指揮者や楽員の見送りかと思ったら、少々雰囲気が違う。
戸口から覗いたら朝比奈隆のサイン会であった。
横長の机を玄関口に据え、燕尾服のままフェルトペンを握っている。
ホワイエ即売会のCDを買い損なったので一瞬逡巡したが、
ダメモトと思い定めてプログラムを持って後尾に並んだ。
順番が来て、「お願いします」とプログラムを差し出したら、
朝比奈は表紙にさらさらと署名し、私の眼をじっと見つめながら、
「有難う」と言って握手を求めた。もちろん初対面である。
がっしりとした掌の感触を受け止めながら、
私は泣き出したくなる思いを抑えるのに懸命であった。
「誠実な人だ。聴こえてくる音楽そのままの人だ」
という感慨はいまも去らない。

文春新書『クラシックCDの名盤 演奏家篇』より、
中野 雄氏の文章を引用させて頂きました。