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現代音楽 第二章

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0363名無しの笛の踊りNGNG
2002.1.27
リュック・フェラーリ日本零年 足立智美


リュック・フェラーリの《プレスク・リヤン第1番》(1967-70) が音の記録/再生のテクノロジーが産んだ最も重要な
音楽作品のひとつであることは間違いがない。タイトルの意は「ほとんどなにもない」。ユーゴスラヴィアの漁港で録音された
素材による20分の音響は、最初のうちは環境音そのままだと感じられることだろう。しかし最後に次第にクレッシェンドし
電子音のように響き始める蝉の声を耳にした瞬間、それまで聴いていた音が作曲者の手で緻密に編集されたものであったことに
気づくことになる。ありふれた音の風景は突然、意味を逆転させて聴き手に迫ってくる。たったひとつの現実と思っていたことが
複数のフィクションに拡散するドラマを聴き手すべてに(ある程度注意力を払って聴きさえすれば)体験させてしまう、
そのコンセプトと手腕は感動的ですらある。
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 「新しい世代の芸術祭2002」は作曲家・鈴木治行の企画、プログラムにより日本では初めてまとまった形で
このフランスの作曲家、リュック・フェラーリを紹介した。2日間に渡るレクチャー、シンポジウム、コンサートのうち、
2日目の午後「テープ音楽コンサート」及び夜の「ピアノ作品コンサート」を聴いた。

 視覚的要素を伴わないテープ作品をコンサート・ホールで一方的に聴かされる体験はあまり気持ちよいものではない。
テープ音楽はCDでヘッドフォンかある程度の性能を持ったオーディオ装置を通して聴くべきである。
しかしこの日のコンサートはその常識をいくらか覆したといえるだろう。多目的ホールで常置のPAに
いくつかの補助スピーカーを立てるだけという限られた条件下でありながら音響のクオリティの高さには正直驚かされた。
日常とは離れた、ホールという空間で録音された音を聴く体験はヘッドフォンで聴くのとは違った広がりを感じさせる。
また作品にとっては本質的なことではないが、限られた色をわずかに変化させていく舞台照明もなかなかのものであった。
コンサートで照明をいじるのは最近は珍しくないが、これほどのセンスの良さに出会うことはまずない。
休憩を2回はさんで3時間で9曲というしつこさもまったく気にならなかったのだから、作品の面白さだけではなく、
非常に丁寧に聴取環境が作られていたということである。
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 「テープ音楽コンサート」では1950年代から2000年までほぼすべての時期の作品が上演されたが、
これらは音の喚起するイメージを利用した70年代以降の作品と、音の抽象的な運動を重視したそれ以前の作品の2種類に大別できる。
例えばピアノの音がスピーカーから鳴れば音と同時にピアノという映像が喚起される。前者の作品ではそのような人の記憶に関わる音響を
素材とすることでドラマを作り出す。《開-閉》(1993)ではゴツンゴツンという固い音を区切りにして道路を進む楽隊や
とりとめのない会話など、日常的な音風景が、まるで脳の記憶の扉を開閉するように去来する。それらには統一感もなければ
明確な構造もない。あるのはイメージが鮮やかに現れそして別のイメージによって裏切られていく一連のプロセスだけである。
めくるめく体験! また《春の景色のための直感的小交響曲》(1974)はフランスのタルヌ渓谷の印象が環境音と羊飼い達との会話、
そこからイメージしたフルートの音で再構成される。しかしそれは単なるドキュメントではない。環境音の中には電子音が
周到に忍び込んでいる。これは現実の断片を再構成した逸話(フェラーリの言葉を借りるなら)なのだ。

 後者の場合、《トートロゴス2》(1961)のように最初から特定のイメージと結びつかない電子音を集積し
全体を構造化することなく音響の求心的な運動を追求している。だが具体的なイメージを伴わない音の扱いはこの作曲家の場合、
魅力に欠けるようだ。最新作の《遺伝子組み換え資料》(2000)では古い作風に戻ったかのように電子音が暴れ回るが、
あまりに表面的な作りであるように思えた。それに比べ、その前年の作品、作曲家のアメリカの旅を素材にした
《ファー・ウエスト・ニュース》(1998-99)ではさまざまな採集音が時にいびつに反復されることで、イメージを喚起する
具体音が抽象的な運動性をも獲得した、優れた作品であった。それは具体音と電子音という二項対立を音響処理技術が乗り越え
電子音のような具体音の加工が可能となったという技術的な要因もあるのだろう。
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 これらのテープ作品においては時に肉感的ともいえる艶めかしいリズムが感じられ、それが何よりの魅力になっている。
しかし続く「ピアノ作品コンサート」においてはこの色気は微塵も感じられなかった。それは作品のせいであると同時に、
ピアニストの中川賢一の平板な演奏に因していたように思える。《ラピタリウム》(1955)からは完全に記譜された作品でありながら、
下手な即興演奏を聴いているような印象しか受けなかったし、セリエル音楽である《ソナチネ・エリブ》(1953-54)では
短いフレーズの反復にテープ音楽に通じるリズムの萌芽を感じ取ることができる作品だったが、ひとことでいって退屈である。
《失われたリズムを求めて》(1978)では微妙に浮き沈みするビートのテープをバックにピアノが即興的な演奏を繰り広げるが、
演奏技術の開陳以上のものではない。救われたのは同じくテープを伴った《小品コレクション、または36のひとつづき》(1985)で、
平易なメロディーや環境音、リズムの連打、語り、チープなシンセ音とピアノのユニゾン演奏など、単純なアイデアが淡々と提示されていく。
力の抜けたユーモアは初めてテープ音楽の持っている強度に並び得た。
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このコンサートではA4版15ページのプログラム・ノートが配布された。単なる曲目解説ではなく、野々村禎彦の充実した論文や、
日本のフェラーリ受容史を語りつつ本音がなんとも面白い近藤譲と大里俊晴の対談など、資料/読み物としても一級のものである。
そこで言及されているように、フェラーリの音楽はいわゆる現代音楽の世界ではなく、実験的なポップ・ミュージックの
音楽家たちから近年、急速に注目を集めており、それがCDのリリースの相次ぐ背景にもなっている。だがサンプリングや反復を
キーワードにそれらを関連づけ、フェラーリをサンプリング・ミュージックの先駆者と見なしたりするのは
少々安易な考え方ではないか。音のイメージを重視する姿勢や、反復といっても唐突でぎこちない肉体を感じさせるフェラーリと、
実験的なテクノやいわゆる音響派の音楽の持つスタティックな抽象性とは似て非であると思うのだ。ジャンルの越境という考えは
魅力的だが、そろそろ個々の質の違いをもう少し丁寧に見ていく必要があるのではなかろうか。こういうことを書くのは、
ターンテーブルのスクラッチ音が入ったフェラーリの低調な最新作に実験的なポップ・ミュージックへのフェラーリの側からの
中途半端な歩み寄りを感じてしまったからに他ならないのだが。


 ともあれ、これほど骨太でかつ丁寧に作られたコンサートは近来経験したことのないものであった。
何より企画者の鈴木氏の熱意と努力と執念には最大級の賛辞。フェラーリをまだ聴いていない人はテープ音楽に
CDで触れていただきたい。とりあえず《プレスク・リヤン》の第1番から第3番まで収めたディスクは
"Luc FERRARI 《Presque rien》MUSIDISC245172" 。

(北区滝野川会館大ホール)
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