>>247
例えばハンスリックは音楽それ自体は観念も情景も感情も表現し得ない、と言って
います。例えばドビュッシーの「海」を何も知らない人が聴いたとして、それが
「海」を描写しているものだとはなかなか思わないでしょう。標題音楽を離れると
それはいっそう明らかです。事前に曲名を知らずにベートーヴェンの交響曲第5番の
冒頭の音を聞いて「これは運命が扉をたたいている音だ」と思う人がいるでしょうか。
つまり作曲家、そして演奏家の「表現」を理解するには、事前にその意図を了解して
おくことが必要で、さらにその良し悪しを語るためには自分なりのその音楽の理想像を
持っていないとならない、ということになります。
聴衆は対作曲家の関係において作り上げた音楽の理想像と演奏家が提示する実際の
音響を比べることによって、演奏家の表現を理解したり、啓発されたりするということですね。
それらの欠落した聴衆に何が伝え得るのでしょうか。結局何か本能的で曖昧な
「気持ちの良い音の並び」とか「迫力のある音響」とか「スピード感のある
パッセージ」といったレベルの体験しか出来ないのではないでしょうか。
(まぁ確かに、少数ながらそこで鳴っている音が全てという完全形式主義の人たちも
いますけれども。)
それが音楽体験であると考える人が、再生音楽により迫力のある音響を求めたりする
のは理解できる話だなぁと思います。