トリスタンとイゾルデの二人は身を横たえたまま、「愛の死」の無限のメロディを繰り返す。
その五小節目あたりで、とつぜん大音響とともに、巨木が倒れた(まったくそんな感じであった)。
音楽がじつに見事に、何百分の一秒の狂いもなく切断され、最前列の客立ちは総立ちになった。
地あかりが入った。と思う間もなく、割りどんちょうが閉じ、客席に明りがともり、誰かしら
「医者を」と連呼しながら、上手最前方のドアを排して駆けでていった。
やがて大半の客たちも立ちあがったが、みな夢うつつかさだかならぬ顔をして、無言でいた。
五分たった。オーケストラの方は人垣でよく見えないのだが、
転倒した指揮者を運びだした気配はない。そのうちに、劇場勤務の医師が今夜にかぎっていないそうだ。
そんな無茶な、などというささやきが伝わり、客席から何人かの医師や医学生らしい人達が出ていった。
カーテン前に劇場の誰だかがあらわれて、「何がおこったかは、いまさら申しあげるまでもない。
続行できるかどうかは目下相談中だから、そのままお待ち願いたい。」
というようなことを低くしゃべって、また姿を消した。
オーケストラの脇の桟敷にいた男女数名は、関係者か縁故者であると見えて退席したけれども、
約二千人の聴衆はみな青ざめて、言われたとおりにじっと待つことにした。
私たちはかれこれ一時間近くも待ったあげくに、報道部長フリース氏がカーテン前で、
「容態は思ったよりはるかに悪い。また歌手も動揺おさえがたく、
この分ではたとえ代わりの指揮者を立てても、続演はとうてい無理ただろう。
教授がこの重大危機を一刻も早く克服されることを祈りながら、今夜は開散したい」と通告した。
七月二十三日の各新聞に一面抜きで、ヨーゼフ・カイルベルト教授の死亡通知が出ることになった。
そこにバイエルン名誉勲章、オーストリア文化勲章と並べて、
NHK交響楽団名誉指揮者と特筆明記してあるのは、
生前の彼が最もうれしがっていた肩書きだからだという。」