【押井守】スカイ・クロラ【森博嗣】 Part8
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0790見ろ!名無しがゴミのようだ!
2008/08/06(水) 17:41:23ID:2warIn/5貴重な意見まじでありがとう。おかげでおれが何に悩んでるのか炙り出せてきたし、
説明図式としてのひとつの像も結べつつある。本当に示唆に富んでた。
「いつも通る道」とは、大人たちの、
そしてこれから若い人々がそこへ絡めとられていくところの、
社会生活(主に仕事。淡白で、何よりしんどい)のことで、中でも近時の若者の一定数は
ただでさえ淡白なその生活を希薄で不感症的に生き、日々の生活の記憶さえ曖昧である。
また無尽の若さがあると錯覚して、日々を無関心・無目的に漠然と暮らし明かしてゆく。
生の充実・実感を得ることがないかわりに、死の絶対的深淵の前に怯えることもない。
自分が死んだって、社会は変わらず回り続ける。ユニークなものなど何もない。
そんな人生にうんざりして、自ら死を選ぶことでそこから<降りる>者もいる。
でも、「違うところを踏むことも、違う景色を見ることもできる」。
うんざりするような日常(外的挿入、与えられた役割)を
うんざりするような仕方で繰り返す(漫然と受容する、引き受ける)のではなく、
うんざりするような日常の中でも自分の意志・意欲をもって
主体的に生を展開してみる余地が、きっとある。そして実際そうしてみると、
結果の如何に関わらず、それは「そう悪いもんじゃあない」。
ただし、それは自分ひとりっきりでやらなくちゃいけないけれど。
劇中に引きつけて整理すると、
「同じ道の違うところを踏む」とは、
いつもの仕事の一環として、編隊組んだままティーチャ戦へとぼんやり臨むのではなくて
あくまで私闘として、ティーチャに単独で挑むということ。
なぜティーチャの打倒が函南の<自分の闘い>になったかというと、
ティーチャと草薙の因縁を看取し、彼が草薙にとってある種の呪縛になっていると考えていたから。
結果として函南は殺されるわけだけど、
彼の闘いに対してはラストの草薙の微笑みが救いと祝福とを与えている。
「そう悪いもんじゃない」だろ?と。
また、この映画が若い人たちに向けられたものだということにも
ラストシーンから接近できる気がする。
笹倉は擦れきった大人の象徴で、「少し違うとはいえ、ループしてるじゃないか。。。」
と見る。それがあの何ともいえない苦い表情にリンクする。
対する草薙は、(作り手がそうあって欲しいと思うところの)若い人たちの象徴で、
「ループしてるけど、少し違う。それも悪くない」と見る。それがあの微笑みにリンクする。
ウサギを見るかアヒルを見るかの違い。
大人は子供に力を貸すけど、大事なこと・本当のことは何一つ教えない。答えない。
この大人/非大人の対比が男女のカテゴリでぼかされるのを嫌って
笹倉を女性キャラにした、というのは深読みに過ぎるかなw
。。以上、解釈としてはお行儀良すぎるし、いかんせん穴が多すぎるけどなww
ちょっと二回目行くときのたたき台にしてみるわ。
おまえらの言ってることもちゃんと覚えといた上で、どんな具合に見えるか 確かめてくる ありがとう。
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