日本のアニメーションはいま、大きな転換期を迎えています。
なんなら落日の期を迎えた、と言ってしまっても構いません。
巨大な慣性質量を抱えたままコーナーに突入し、
いまさらブレーキを踏んでもコースアウトは目に見えているし、かといってアクセルを踏み続ければ
クラッシュは避けられない―いずれにせよ大きく減速して
首位の座を明け渡すF1マシンのような状態にある、と言っても過言ではないでしょう。
世界に冠たるジャパニメーションがそのピークを過ぎて、すでに数年が経ちます。
昔日の勢いを取り戻すことは、もはや二度とないでしょう。
一度でも減速して脱落すれば、トップグループに返り咲くことは
二度とない、というメディアの原則に例外はありません。
技術開発のための投資と、人材発掘の努力を惜しんだ当然の結末である―とはいいながら、
しかし未だ現場にある者として、他人事として済ませられぬこともまた事実であり、
実践的課題なるものを提示しつづけることもまた、監督と呼ばれる人間の責務ではあります。
CGIの技術を補助的に活用することでセルアニメーションの限界を突破する、
などという折衷的な主題はとうの昔に色褪せています。
セルアニメーションの根幹を成すべき作画技術の相対的な落ち込み、
という深刻な状況を回復不能な命題として認識する者なら、
セルアニメという成熟した共同体を離れて、
CGIという未開の地に踏み込むしかない―わけても
3Dキャラクターアニメーションと呼ばれる<秘術> を習得するしかないのだ、という覚悟は当然の帰結でなければなりません。
ただし、この<秘術>を日本的な意味合いにおいて―
つまり映画として具現化したアニメーションは未だに存在しません。
ハリウッドのアニメーションが実現してみせたような、
言ってみれば牧歌的な主題と方法論ならばともかく―彼らと同じ途を辿っていたのでは、
その産業の規模において拮抗し得る筈もなく、したがってまた需要も派生しないことは
明らかなのですから―ジャパニメーションと呼ばれたものがそうであったように、
それは日本人の感性に基づく独自の様式でなければなりません。
あえて<秘術>と呼ぶ所以でもあります。
その必要性を漠然と理解しつつ、しかし微温的な共同性に浸って慣性質量のみを増加させつづけてきた
アニメーションの世界にその秘術を期待することは、残念ながら望むべくもありません。
この十数年を省みるなら、アニメーションの世界に関わる者が無意識に避けつづけてきたその課題を、
技術と規模において正面から受け止めてきた者たちこそが、ゲームに携わる者たちだったのでしょう。
彼らは様々な世界における映像の成果を参考にしつつ
(かつてアニメーションに携わっていた者たちがそうであったように)、独力で
自らの様式を築き上げてきたに違いありません。
瞠目すべき成果も、また単に劣化コピーと呼ぶしかないものも含めて、夥しいCGIが量産され
―それら全てをスキルの原資として自己の方法論を確立しつつある者もいる筈です。

http://www.konami.jp/mgs4/jp/interview/comment_oshii.html