>>505-507
ハッピーエンドだと思いたいならそれでいいじゃん
なにをいまさら言ってるのかと・・・
俺にとって3話はPV見せられた気分で胸糞悪いけどね
しょうがないから今ダヴィンチの小説版で補完してる最中

まあとりあえずこれ読んでみそ ↓

三話目は私にとってはハッピーエンドともアンハッピーエンドとも確定できないものでした。
明里が大人になり結婚する相手が、貴樹くん以外の男性とは私には断定できませんでした。
私が正しくシーンを追っていて、これが監督の意図であり、正しく受け取っていることを前提に話します。
(間違っていたらすみません)

ほとんどの人が大人になった明里の横に貴樹くんがいない第三話に絶望したと思います。

現実は厳しく、思春期にはあざやかだった想いは失われてしまう。
時の流れは厳しく、明里は他の男性と幸せになる。
こう解釈した人は多いのではないでしょうか。

けれど別の解釈もできるのです。可能性にすぎませんが。
初めてはなればなれになったときの想いを明里は自分の手紙を見つけて思い出した。
それは貴樹くんが再び明里と逢うことができた未来の話です。

ぼろぼろになり何もかも失ったような気持ちで、貴樹くんは再生を目指します。
One more chance.
ぶざまだけれど、彼は明里を再び追い求める。
いまさら逢ってなんになる。
気持ちは変わっているに決まっている。
思春期の頃の今思えば恥ずかしい恋心でしかない。
そんなものに価値はない。
現実の中で私たちはそう自分に言い聞かせ、大切なものをおとしめ、あきらめてしまうのです。
そういう私たちには貴樹くんが明里と再び出会う未来を想像できないのです。

でも、そう解釈することもできる。
明里が手紙を見つけて昔の想いを語る時間軸は、かならずしも貴樹くんのその後を描いた時間軸と同一とはいえないからです。
第三話の貴樹くんは明里に再び会う前の貴樹くんであり、第三話の明里は貴樹くんに再び出会った後の明里という解釈です。
ただし映像作品の通常の時制のルールからは反則ものですね。

この物語は閉じられていないと私は考えます。
ストーリーの終わりが主題歌で締めくくられていることがその理由です。
この物語の終わりは観客に任されている。
明里の横には貴樹くんがいるかもしれないし、そうでないかもしれない。
どちらかに決めることができない。

パンフレットの言葉にある「誠実」の意味を考えます。
観客には成就した恋愛の中にいる人もそうでない人もいます。
単純なハッピーエンドにすれば現実の厳しさを描けない。
単純なアンハッピーエンドであれば現実の悲しみしかない。
断ち切らなければいけない想いを抱いている人に、ハッピーエンドをみせてそれでいいのだろうか?
負けそうになる気持ちを必死で繋ぎとめている人に、アンハッピーエンドを見せてそれでいいのだろうか?

送り手として「誠実」であればあるほど、どちらかに簡単に決められないことが解ります。
監督が「自由に作らせてもらった」と発言しているように、娯楽作品としての解りやすさを犠牲にしてでも、エンディングを確定させない作品を作りたかったと解釈することもできます。